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三層三階の現存天守。 千鳥破風、切妻破風、唐破風、入母屋破風と言った幾つもの屋根様式を詰め込んだように配置しており、変化に富む表情を見せる。 大津城からの移築といわれ慶長十一年(1606)に完成した。内部は通柱をさけた造りや隠狭間など実戦的な構造になっている。 平成8年に大改修が完了。高欄に金箔を施した美しい姿がよみがえった。 |
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天守を目の前にした最後の門である重要文化財の太鼓門櫓。 門櫓の南には、「く」の字に曲がった続櫓が付設され表門(博物館)方向からの防備を兼ねている。 石垣にそびえる櫓の重厚な造りは大きな威圧感を与えている。この門櫓は、建物の背面の東壁面が開放され、柱間に高欄(手すり)を設置して1間通りを廊下にする特徴的な造りとなっている。 一説には櫓の名称の由来ともなった太鼓が置かれていたとも言われているが真偽は不明。 |
大堀切の上の掛橋を渡った突き当たりにあたるのが天秤櫓である。 長い多聞の左右の端に2重2階の一対の隅櫓を構え、あたかも天秤ばかりのような独特な形をしている。 この櫓は本丸と鐘の丸の中間に位置しているが、表門と大手門からの坂道である表坂と大手坂をそれぞれの隅櫓が射程に納めており防衛上非常に重要な施設であった。 写真からも非常に頑強な構造の石垣が確認できる。『井伊年譜』には長浜城大手門の移築との記載がある。 |
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観光上はつい通り過ぎてしまいがちではあるが是非とも見ておきたいのが鐘の丸であろう。 これは本丸、西の丸とは独立した曲輪であり、いわゆる馬出しの機能を持っている。 馬出しとは防衛拠点と同時に逆襲に転じるための設備であり中世の城廓施設に多く見られる特徴的な構造物である。 著名なものには大阪城の真田丸が挙げられるだろう。鐘の丸からは正面に大手門と側面に沿う様に表坂が奔っていてこれらを見事に射程に納めている。 周囲の石垣と内濠とあわせて完全な独立した砦の造りをしているのがわかる。 |
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西の搦手(からめて)(裏手)方面からの敵に備えた設備が西の丸の三重櫓である。 櫓は西の丸の西北隅に位置しており更に西に張り出した観音台との間には巨大な堀切がある。 堀と曲輪との間は橋で渡されており堀からは10メートルを超える櫓の石垣が望める。 |
表門に通じる入り口佐和口は中濠から城内に続く4つの門の中で最も 重要なものである。 入り口から中濠に沿って続く多聞櫓は堀外から見れば圧倒的な景観で、そそりたつ壁の様に見える。多聞櫓と言う形式のものは当時の攻城技術では非常に突破困難なものであった。 唯一の入り口 は枡形の虎口になっており二層の櫓と無数の狭間はいろは松の通り全てを射程に納めていた。 |
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全国でも非常に珍しい現存する馬屋である。 二の丸佐和口多聞櫓の下方にあり、建立は元禄(1688~1703)の頃かといわれている。 こけら葺きの美しい稜線をもつ屋根と、白壁に簓子(さざらこ)下見板張りの外周との調和が素晴らしく、常時10数頭の馬が藩主の出陣、野掛け、狩様として用意されていた。 |
いろは松のわき道を北に入った旧中堀に面して立つ簡素な武家屋敷である。 井伊直弼が、17歳から32歳までの15年間捨扶持わずか300俵の部屋住みの身として過ごした場所である。 直弼は、ここで主に身心の修練に努め、禅の精神を茶の世界に学んだといわれる。「世の中をよそに見つつも、うもれ木の埋もれておらむ、心なき身は」と自身を埋木にたとえて詠んだ句にちなんで屋号がつけられたと伝わる。 |
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江戸時代初期(1677年)に彦根藩4代藩主井伊直興によって造営が開始された井伊家の下屋敷。 「御書院」「地震の間」など江戸時代後期の数奇屋建築が現存する。 江戸時代は「槻御殿」あるいは「黒門外御屋敷」と呼ばれており、明治時代以降に「樂々の間」から「楽々園」と呼ばれるようになったとされる。 |
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江戸時代初期(1677年)、彦根藩4代藩主井伊直興により造営された大池泉回遊式日本庭園で、彦根城天守の北東は琵琶湖の水をひいた内濠と中濠の間に位置する。 彦根城を借景としている点も特徴で、江戸時代初期の大名庭園である。隣接する楽々園とともに国の名勝に指定されている。 |
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江戸時代までに彦根藩の政庁を司っていた表御殿を、彦根市の市政50周年を記念して、1987年2月に開館した。 表御殿を復元するにあたって、発掘調査、絵図、明治時代初期の写真を参考に、博物館としての機能も加味しながら復元している。 |
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